~ sleeping lion ~ 3
「日向ァ。」
2年B組の教室のドア口に立つクラスメイトが、日向の名を呼んだ。
その日は雨が降っていて、外にも出られず、だからといって図書室や体育館に行く気は更になく、日向は自分の席で机に突っ伏して仮眠を取ろうとしていたところだった。
日向が顔を上げてドア口に佇む人影を見ると、その人は小さく手を上げた。顔は知っているが、名前は思い出せない。確か吹奏楽部の3年生だ。
日向が歩いて行くと、「呼出してごめん。・・ちょっといいかな?」と、その人物は先に立って廊下を歩いていく。細くて色白で、背もそんなに高くない。見た目はどことなく岬に似ているような気がした。
「ついてきてくれ」とも言わずに歩き出すあたりが、顔には似合わず、意外に強引なのかもしれない。もっとも、綺麗な花ほど棘があるということを具現しているのが岬だったから、それはそれで日向はすんなり納得できた。
「ごめんね。急に呼び出して」
校舎の端にある視聴覚室の前の廊下まで進み、ようやくクルリと振り返った人物は日向に向かって謝った。
「いえ・・・。でも、何ですか?」
東邦学園での生活も5年目になり、上級生や下級生といっても、下から上がってきている生徒は大体が顔見知りだった。日向が知らない、ということは、おそらく高等部になって外部から進学してきた生徒だろう、と推測できた。
「僕は、3年D組の榎です。君とは、試合の応援くらいでしか接点はないかもしれない」
「何度か、見たことがあります。・・・えっと、それで?」
自己紹介をされても、日向にはやはり自分が呼び出された理由が分からない。すると相手はクスリ、と笑う。
やっぱり、岬に似ている。
静岡でサッカーをしている古くからの友人のことを思い出し、目の前の人物に少し親しみを覚えてしまう。
「この間・・・亮輔が迷惑を掛けたでしょう?一言、謝っておこうと思って」
目の前の相手・・・榎は、薄茶色の瞳を悪戯っぽくクルリと回して、日向に笑いかけた。
そう言われて、ようやく日向にも榎が自分とどう関わってくるのかが分かる。
「・・・もしかして、あの、体育倉庫の、ヒト・・・ですか?」
「うん、そう。この前はごめんね。嫌な思いをさせちゃって」
「いえ、別に。・・・嫌な思いなんて・・・してません」
あの体育倉庫にいたときでさえ、別に不快ではなかった。見つかったらまずい、という緊迫感と、他人の秘密を盗み聞きしているという後ろめたさがあっただけで、例えば生理的な嫌悪感のようなものは無かった。不快に思うことといえば、自分と若島津のことを陰でいいように噂している人間がいる、ということくらいだ。
「でも、亮輔は君を怒らせてしまったでしょう?・・・・幸い、あいつも反射神経がいいから君の蹴ったボールは当たらなかったけれど。あれだけの至近距離で君のボールが当たったら、多分無事ではなかったと思う・・・と本人が言っていたから」
「・・・すみません」
あまりな久保の発言に、ついキレてしまった日向は事もあろうに、まだ大事に抱えていたサッカーボールを宙に投げ、久保目掛けて蹴りだしたのだった。
榎が言うように、久保の反射神経が良かったから当たらずに済んだが、その代わりにバスケットボールの入った籠が歪み、跳び箱が崩れ、カラーコーンが飛んだ。
もともとそれらの備品は古くてボロだったこともあり、誰がやったのかと犯人探しには至らなかったが、青い顔をした久保と日向でその場は一所懸命に片付けたのだ。
「あいつは何にも考えないで喋っちゃうところがあるから。・・・でも、悪気は無いんだ。決して君を馬鹿にしようとした訳じゃない。・・・それだけ、分かって欲しくて」
「大丈夫です。それは・・・」
榎に言われるまでもなく、久保に悪意や裏が無いのは少し話しただけでよく分かった。・・・だからといって、害が無い訳では無いけれど。
「ありがとう。・・・今後は不用意な発言は控えるように、よく言い聞かせておくから」
「はい・・・あの。ひとつ、聞いていいですか」
「何?」
「・・・・あいつが男だってことは、全く気にならないんですか?」
我ながら、よくそんなことを聞けたものだと思う。そこまで立ち入ったことを、初対面に近い人間に聞いていいものかと日向も迷ったが、見るからに単細胞な久保に尋ねるよりは、目の前の落ち着いた雰囲気の上級生に聞いた方がいいような気がした。
榎は少し驚いたように目を丸くしたが、しばらく考えた後に微笑んで答えた。
「実は、僕は自分のことを男だと思ったことが無くて。・・・・・ずっと、性別を間違えて生まれてきたんだと思っているから。だから、いずれは女の子になるつもりなんだよ。そうすれば、亮輔と一緒にいてもおかしくないでしょう?」
「・・・・・・・・・」
「じゃあ、またね」
榎が去っても、日向はしばらくその場所から動けなかった。
榎の回答は日向には予想もできなかったことで、自分がここ数日間悩んできたことの答えへのヒントにはなりそうも無かった。日向は女になりたいと思ったことはないし、サッカーで生活を立てていくことを考えれば、男に生まれて感謝しているくらいだ。
でも。
男であれば、若島津とこの先もずっと一緒にいるのはおかしいのかな、 と思ったりもした。
若島津は人知れず煮詰まっていた。いや、それを感知していた人間は何人かいたが、だが肝心の日向は何も気がついていなかった。
日向は何しろ、この一週間というもの、できるだけ若島津の傍に寄らず、二人きりになることを避けるかのように部屋にいつかず、部屋にいてもすぐに寝てしまうか、若島津と会話もせずに雑誌や本を読み出してしまうからだ。
日向のことだから、突如壁を作りだした原因が若島津でないのなら、放っておいてもすぐに元に戻るかと思っていた。だが、一週間経っても元の状態に戻るどころか、益々日向が余所余所しい態度を取るようになっている。
部に与える影響がどうの、ということはさて置き、この刺激もない退屈な寮生活において、同居人との不仲は致命的だ。若島津としては今後は一切の妥協をせず、原因の究明に当たるしかなかった。
「日向さん。ちょっといい?」
日向が風呂から上がって談話室に入ろうとしている所を、若島津は押さえた。
「話があるから、ちょっと部屋まで戻ってよ」
「・・・分かった」
消灯も間近の時間だ。若島津は既に先に風呂に入っていたので、いつもの夜ならば翌日の準備をして眠るだけだった。こんな状態になるまでのいつもの夜なら、就寝前に日向と語ったり、ふざけたり、一緒に雑誌を見たり、といった時間があったのだが、この1週間はそれも望めなかった。
「そこに座ってください」
いざ揉めても邪魔が入らないように若島津は部屋のドアに内側から鍵をかけ、日向に座るように言った。大人しく従った日向は、何を若島津から言われるのか、おおよそ分かっているようだ。
「回りくどいのは嫌いだから、はっきり言うけど。最近のあんたの態度はおかしいんじゃない?見ていると他のヤツには変わらないでしょ?俺だけ。・・・どういうことか、説明して貰いましょうか。日向さん」
言葉こそ丁寧だったが、日向の座ったベッドの前に腕を組んで仁王立ちになって詰問されると、責められているように日向は感じた。でも、責められても仕方がないとも思う。若島津には何の非も無いのだ。勿論、自分にだってそんなものは有りはしない。有るとすれば、あそこで久保と榎に遭遇してしまったことだった。
「まあ、俺としては部活に影響出ても何だし、と思って黙ってたんだけどね。それにしてもいつまでもこんな調子じゃ、一緒の部屋にもいられないでしょう。誰かと変わって貰う?」
その言葉に日向は弾かれたように顔を上げる。
部屋を変わる・・・・?誰と?若島津を?
若島津以外の人間と一つの部屋に暮らすなど、寮に入ってから一度も考えたことは無かった。
「あんたなら、引く手数多だよ。反町でも島野でも他の部のでも、好きなヤツを選べばいい」
「・・・そんなこと、したいと思ったことねえよ」
「じゃあ、何で俺のことを避けているのか、話してよ」
「避けてなんかない」
「・・・ちゃんと俺の目を見て話しなよ。あんたらしくないよ」
日向は彷徨わせていた視線を若島津に合わせた。若島津は真摯な目をして日向をじっと見つめている。
腕を組んで自分を見下ろすその姿は、一見いつもの不遜な態度の若島津だったが、その瞳の奥には隠しきれない不安や迷いの色があるように日向には見えた。きっと、自分がこの数日思い悩んでいたせいで、若島津にも心配を掛けたのだろう。
そう考えると、日向にはもう隠し事は出来なかった。
「これから、変なことを言うかもしれないけれど、・・・気にしないで聞き流してくれ。いいな?」
前置きをして、日向はあの日、体育倉庫で目撃してしまったことから、久保に言われたことまで、一切を若島津に話し始めた。
自分が知っていることを在りのままに話すことは、日向にとってはものすごく恥ずかしいことだった。特に、自分と若島津の、あまり表には出したくない噂の部分に至っては、しどろもどろになり、何度も「だから、単なる噂だからな・・・っ」「気にするんじゃねえぞ」と付け加えながらの説明だった。
それでも顔を赤くして一通り話し終えた日向に、若島津は一言、「それで?」と言った。
「だって、お前・・・それで、って・・・」
「それだけですか?それだけで、あんなに俺を避けるもの?・・・そんなもの、あんたなら『コレコレ、こういう噂があるんだってよ。バッカだよなー』で終わるでしょうが」
「・・・・・」
「もしかして、意識したってこと?・・・本当に、俺をそういう対象として見ちゃうかも、とか?それとも、俺にそう見られているのかも、とか?」
「ちが・・」
「俺って信用ないんだな。ガキの頃から一緒にいるのにね」
「だから、そうじゃなくて」
「そんなの、放っておけばいいのに。俺は気にしないよ。日向さんはどう思ったか知らないけど」
「俺は、ただ・・・・・・気持ち悪いかな、って・・・」
その瞬間、日向への尋問めいた会話を少し面白がり始めている節もあった若島津の顔から、表情というものが抜けた。
「・・・気持ち、悪い?・・・俺が?」
「お前のことじゃないって。そうじゃなくって・・」
「俺とそういう噂があるって聞いて、気持ち悪いな・・・って思った?」
「違うって。ちゃんと聞けよ。・・・・俺は、お前が、そう思うんじゃないかって」
「何を?」
「だから、俺とそういう噂があるって知ったら、きっとお前がそう思うって・・・」
「でも、自分がそう感じたから、俺も同じなんじゃないかって考えたんじゃないの?」
「違うって!」
日向は、口下手で思うように説明できない自分に苛つく。それに、どうしてこんな風に若島津が責めてくるのかも分からない。若島津に話したとして、無責任な噂に憤慨するか、「げ、気持ちわる」と言って笑い飛ばすか、どちらかだと思っていた。
その反応によっては少しの間は気まずく感じるかもしれないが、多分、時間とともにそれも忘れていく筈だった。少なくとも、若島津にとってはそうなる筈だった。
日向には、もう、どう言葉を繋げばいいのか分からない。自分でもこの1週間、どうして若島津に言えなかったのかがはっきりとしないのだ。ただ何となく気まずくて若島津を避けてしまい、そうこうしているうちに時間が過ぎて、益々切り出すタイミングが分からなくなってしまったのだ。
「試してみる?」
何とか自分の気持ちを出そうと口を開きかけた日向に向かって、不意に若島津が言った。
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